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青木健一郎

青木健一郎
AOKI KENICHIROU

 私は1946年高知県高知市で生まれ、1962年16才でトーハツランペットとアローで四国地方のモトクロスレースに参戦を開始し、四国選手権及び地元のレースで優勝を重ね、1965年1月ブリヂストンサイクル工業(現ブリヂストンタイヤ)とライダー契約を結び、MFJ第三回モトクロス日本GP、第一回富士モトクロス、第6回神奈川モトクロス、西日本モトクロス選手権、モトクロス四国地方選手権など、数々のレースで優勝を重ねました。
 その後1966年限りでブリヂストンがオートバイの製産中止を決定したことを機に契約を解消し、オートバイのチューニングショップを始め、それから2年後、四輪レースへの転向を決意し、1969年スズキフロンテ空冷の開発に着手。1年後の1970年から四国及び中国地方のジムカーナ―に参加し、翌年の1971年から中国地方のJAF公認レースに参戦を開始し、1975年までの5年間で25勝を記録しその内総合優勝は15回。(1971年と72年の2度の3時間耐久レースの総合優勝を含む)。この間ジムカーナーで14回の優勝(内9回の総合優勝)を飾り、その他ショップの顧客によるロードレース日本GP及びモトクロス日本GPの優勝経験があります。
 1975年6月をもってショップの業務に専念する為、四輪レースから撤退しました。撤退から10年を経過した1985年、中山サーキット主催のFLB(フロンテエンジン使用のフォーミュラー)レースでカムバックを果たし、初年度の85年はシーズン途中から出場し4戦中4勝。86年は10戦中9勝。87年は8戦中7勝。88年は10戦中9勝。89年は6戦中6勝しシーズン途中で撤退。86・87・88年と3年連続でシリーズチャンピオンを獲得しました。FLBによる勝利は通算36勝でそれに前記のフロンテ空冷・水冷による25勝を合計すると、JAF公認レースで61回の優勝を記録。尚、上記以外のホンダS600・サバンナによるジムカーナー・ヒルクライム・ダートトライアルなどの戦績については、参加した年月日の記録が失われているのでそれらについては除外しました。

スペース

レース・ジムカーナー戦績

・1971年度参加レース・ジムカーナー

6/24  チャリティトライアル  野呂山スピードパーク       優勝
7/11  西日本自動車レースNo.-Ⅱ 中山サーキット         優勝
7/25  中国クラブ連合レース第4戦 野呂山スピードパーク       優勝
8/15  オールミニ3時間耐久レース 野呂山スピードパーク       総合優勝
8/29  中国クラブ連合レース第5戦 野呂山スピードパーク       優勝
10/3  中国クラブ連合レース第6戦 野呂山スピードパーク       優勝
10/24   西日本自動車レースNo.-Ⅲ 中山サーキット         優勝
11/7  中国クラブ連合レース第7戦 野呂山スピードパーク       優勝
12/5  野呂山100マイルレース  野呂山スピードパーク        優勝
12/12  CRCC主催ジムカーナ― 高知                総合優勝

・1972年度参加レース・ジムカーナー

3/5    UFO主催ハイスピードジムカーナーNo.-I 高知       総合優勝
3/12  中国クラブ連合レース第1戦 野呂山スピードパーク     優勝
3/19  SRCゴールドトロフィーレース第2戦 中山サーキット   優勝
3/26  土佐ハイスピードトライアルNo.-II 高知          総合優勝
4/2    UFO主催ハイスピードジムカーナーNo.-II 高知      総合優勝
4/16    オールミニ3時間耐久レース 野呂山スピードパーク      総合優勝
4/23    西日本自動車レースNo.-II 中山サーキット          優勝
7/2      土佐ハイスピードトライアルNo.-III 高知            総合優勝
7/16    西日本自動車レースNo.-III 中山サーキット         優勝
7/30    西日本王座決定ハイスピードトライアル 中山サーキット     優勝
8/6    土佐チャリティハイスピードトライアル 高知         総合優勝
8/27  西日本王座決定ハイスピードトライアル 中山サーキット    優勝
12/3  野呂山3時間耐久レース 野呂山スピードパーク       リタイヤ

・1973年度参加レース・ジムカーナー

1/3    ニューイヤーレースミーティング 中山サーキット        リタイヤ
2月    EMC四国選手権シリーズジムカーナ― 松山        総合優勝
3/25     中国クラブ連合レース 野呂山スピードパーク          総合優勝 コースレコード樹立 54’8秒
4/8    ゴールドトロフィーレース第2戦 中山サーキット          2位
4月    EMC四国選手権シリーズジムカーナ― 松山        優勝
5/27    OCCダートタイムトライアル 高知            優勝
6月    EMC四国選手権シリーズジムカーナ― 松山        総合優勝
7/8    野呂山サマーレース 野呂山スピードパーク         総合優勝
8月    EMC四国選手権シリーズジムカーナ― 松山        総合優勝
10/14   西日本オールスターレースNo.-III 野呂山スピードパーク   総合優勝
11/4  山陽放送杯自動車レース 中山サーキット          リタイヤ
12/9  SRCゴールドカップレース 中山サーキット        総合優勝 コースレコード樹立 1’01’4秒

・1974年度参加レース

1/3   中山ニューイヤーレース 中山サーキット          総合優勝
3/17    中山ゴールドトロフィーレース 中山サーキット         総合優勝
4/28    西日本オールスターレースNo.-I 野呂山スピードパーク     総合優勝
5/5      西日本自動車レース 中山サーキット            総合優勝
6/9      西日本オールスターレースNo.-II 野呂山スピードパーク    総合優勝
8/18  野呂山サマーレース 野呂山スピードパーク           総合優勝
9/22  西日本オールスターレースNo.-III 西日本サーキット     3位
10/20   野呂山5周年記念レース 野呂山スピードパーク        総合優勝

・1975年度参加レース

3/30    西日本自動車レースNo.-I 中山サーキット            総合優勝
6/1      西日本自動車レースNo.-II 中山サーキット           総合優勝

・1985年度参加レース

8/25  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
9/15  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
10/13   山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
11/24   山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
 

・1986年参加レース

1/12    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
2/23    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
3/30    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
5/3      山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
6/29    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
8/17    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
9/23    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
10/26  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
11/16  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
12/20  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   リタイヤ

・1987年参加レース

2/22    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   2位
3/29    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
5/3      山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
6/7      山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
8/30    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝 コースレコード樹立 58’740秒
10/4    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
11/15  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
12/20  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝

・1988年参加レース

1/17    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
2/28    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
3/27    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
5/5      山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
6/19    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
7/17    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
8/21    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   6位
9/18    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
10/16  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝 コースレコード更新 58’637秒
11/23  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
12/16  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝

・1989年参加レース

1/8      山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
2/5      山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
3/26    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝 コースレコード樹立 1’06’639秒(新コース)
4/23    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
5/21    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
6/18    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   優勝
7/16    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   不参加
8/20    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   不参加
9/17    山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   不参加
11/12  山陽フォーミュラーカーレース 中山サーキット   不参加
  • 1932年式 ハーレーベビーツイン
  • 1932年式 ハーレーベビーツイン
  • FLBレース
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  • フロンテクーペR360
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  • ランペット スクランブラー
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  • 手造り自動車「キムリックエーワン」
  • 手造り自動車「キムリックエーワン」
  • メッサーシュミットで屋久島へ・・・
  • メッサーシュミットで屋久島へ・・・

私とメッサーシュミットの関わり

 私のメッサーシュミットは、1986年にイギリスから購入し2017年4月現在まで31年間乗り続け、これまでの走行距離は79,620マイル(127,392㎞)です。
 私は10年位前からメッサー以外に車を所有していませんので、メッサ―を毎日の足として使用しています。購入したメッサ―のコンディションが余りにも悪かったので、その後4~5年はありとあらゆるトラブルを経験。文字通り「走る実験室」さながらそれらのトラブルを克服し、2000年7月と2013年10月に屋久島へのロングツーリングも経験しました。
 経路は地元高知から約3時間半かけて宿毛のフェリー乗り場までの山間地を約80マイル(130㎞)走破し、フェリーにて約4時間で大分県の佐伯へ渡り、そこから鹿児島県の屋久島行きのフェリー乗り場まで190マイル(305㎞)をガソリン補給と食事以外はノンストップでひたすら走り続け約8時間で到着し、そこから約4時間の船旅で屋久島へ到着しました。陸路の往復距離は、560マイル(890㎞)で、2013年は島での約1ヶ月の滞在期間中460マイル(736㎞)走行したので、合計すると1020マイル(1,626㎞)になります。
 この間トラブルと言えば、フロントブレーキシューのダストがカムへ付着し片効きを起こし、ドラムを分解してダストの除去をした事のみで、それ以外のトラブルは無く快調でした。出発時車載した荷物(ツール一式、スペアパーツ、ガソリン20L、オイル6L、キャンプ用具一式、ジャッキ、エアポンプ、スペアホイル(2)、カメラ、ラジカセ、電池、アイスボックスなど合計76㎏)。これ位重量が増えるとブレーキの効きが悪く、又長い登り坂はパワー不足で相当苦しかったです。屋久島到着後、標高約1,000mの屋久杉ランドへ2度アタックしました。長時間セカンドとサードギアを多用しエンジンを相当酷使しましたが、それにも耐え、ザックスエンジンの優秀性が実証されました。
 メッサーシュミットは今から60年も前の車でありながら、これと言った欠点が見当たらない非常に良く出来た車だと思います。しかし残念ながら充分な整備がされていない車が多く、その結果世間から間違った評価を受けているケースも多々有ります。
 私は今日まで12万㎞余り走行しその間2度のエンジンオーバーホールを行いました。一度目は購入して2ヶ月後の1986年7月にギア抜けとクランクのシール不良による不調でオーバーホールしましたが、その時ギアの入手が出来ず部分処置をして2007年3月、2度目のオーバーホールをするまで乗り続けました。2度目のオーバーホールでクランクとミッションを交換しシリンダのボーリングも行いました。その他交換したパーツはピストン、リング、ピン、オイルシール・メインシャフト及びカウンターシャフトのベアリング、クラッチインナー、アウタープレート、チエンなどで、その後今日に至っています。メッサーシュミットは、正しいオーバーホールを行えば60年前のわずか200ccのエンジンとはとても信じられない程の耐久力とパフォーマンスを発揮します。
 ザックスエンジンは2サイクル単気筒ですので一般には整備が簡単だと考えられていますが、私が50年間で経験したエンジンの中では難度の高い部類に入ります。高温多湿の日本の環境下でオールシーズン調子良く走らせるには、それなりの整備力とノーハウが必要なのも事実です。不注意や充分な知識が無かったり、特殊工具を用いずオーバーホールを行い人為ミスでエンジン各部へ重大なダメージを与えているケースが余りにも多い事を憂慮しています。製造されておよそ60年後の今日まで幸運に恵まれて生き残った貴重な車ですから、注意深く愛情を持って接してほしいと願うばかりです。
 近い将来、全国のメッサーシュミットオーナーの親睦を兼ねて世界遺産屋久島へのツーリングを計画しています。遠方からおいでの方は九州大分まで車載で来てそこから自走するのも良いと思います。大分からだと自走距離はおよそ300㎞です。屋久島の大自然の中をメッサ―で駆け抜けると、その雄大で美しい景観に魅了され快感に酔い痴れる事でしょう。
 メッサーシュミットによる屋久島へのチャレンジは、オーナーにとって大変貴重なエピソードとなり、又その車には輝かしいヒストリーが刻まれる事でしょう。興味がお有りの方は御連絡下さい。オーナーのみならず業者の方も歓迎致します。

メッサーシュミット今後の目標

 過去2度の屋久島行きで高知県の山間地や九州の霧島連山などで急な登り坂が延々と続き大変苦労した思い出が有ります。
屋久島の旅は長期滞在を前提にしているので持って行く荷物が多く合計すると70㎏をオーバーするので前記の様な登り坂ではパワー不足が顕著で必然的に低速ギアを多用するので常に後続の車に気を配る必要が有り結構ストレスがたまる。この様な状況ではエンジンの負担が大きく燃費も悪化するので好ましくない。5速ギアに改造出来れば問題は一気に解決するが技術的にもコスト的にも無理が有るので現在この対策としてフルスケールの250㏄にする事を考えています。しかしそれに伴いクラッチの強化やギア比の変更、ブレーキの強化などが必要になるので順調に進んでも完成までに一年以上かかると思います。
メッサーシュミットが良く出来ている車だと言っても車重が190㎏で9.7馬力しか無いのでパワーウエイトレシオは一馬力当り19.6㎏と非力です。
因みにホンダカブ50㏄の場合は車重が80㎏で4.5馬力なのでパワーウエイトレシオは一馬力当り17.7㎏なのでメッサーシュミットはカブよりも更に一馬力当たり1.9㎏重いので登り坂は厳しいです。
私が屋久島へ行く時はメッサ―の車重190㎏に自分の体重70㎏と荷物70㎏を合計すると330㎏になるので実動状態でのパワーウエイトレシオは一馬力あたり34㎏で非常に厳しい値です。解かりやすく言えば50㏄のカブへ70㎏の大人が2人乗りをして延々と続く急な坂を登るのに近い感じです。私のメッサーは日常の足として毎日使用しており恐らく日本で一番酷使されているはずですがそれでも2007年3月に2度目のエンジンオーバーホールを行ってから既に11年経過しその間に40,600マイル(65,000㎞)走行しています。近年ギアの摩耗が進みノイズと微振動が出ているので今年(2018年)中に3度目のエンジンオーバーホールを予定しているのでそれと並行してフルスケール化に着手しようと考えています。
私が長年メッサーシュミットに乗り続けて来られたのはひとえに秋田県仙北市でレストアショップを経営している佐藤清平さんに度々貴重なパーツをお譲り頂いたおかげです。
私と佐藤さんのつながりは2007年に私のメッサ―のミッションがダメになり困っていた時譲って頂いた事から始まりました。その後現在まで一度もお目にかかっていませんが彼はまるでセロトニンの様な人でその優しい秋田弁に触れるとそれだけで癒されて幸福感でもりもりと元気が出ます。そんな理由で彼は私の宝物です。私がイギリスからメッサ―を購入したのは1986年5月だが前のイギリス人のオーナーがメカに無頓着な人だった様で至着時エンジンの始動が極度に悪く始動後はアイドリングが異常に高くなりその上ギア抜けやクラッチの滑り・エンジンの異音など様々な問題が有りまともに乗れる状態ではなかったので至着から2ヶ月後エンジンのオーバーホールを行った結果クランクのシールが抜けてギアオイルが燃焼室へ上がりオイルが無い状態で長期間乗り続けた結果全てのギアは歯面に深いキズが付きドッグやドッグホールは潰れスモールスプロケットとクラッチボディ(ギアと一体)及びチエンも異常摩耗を起こしクランクケース内部は鉄粉が付着しクラッチディスクは炭化していた。ギアのドッグホールは補修しクラッチディスク・プレート・クランクのベアリング・シール・スモールスプロケット・クラッチボディ・チエン・ボールベアリングスリーブなどを交換し走行は可能になったがギアの歯面のキズが深かったのでギアノイズは発生していた。
このオーバーホールによりその後2007年まで乗り続ける事が出来たが元々ダメなギアを補修していた為21年後に限界に達しミッションの入手が出来ず困っていた時佐藤さんに譲って頂いた。ギアを交換する前はセカンドやサードが抜けてその弾みでローやセカンドへ飛び込み急減速して後続の車に追突されそうになった事も有った。メッサーシュミットのパーツは現在ほぼ80%以上はイギリスのクラブから入手出来るがミッションやクラッチボディ・スモールスプロケットなどはユーズドパーツしか手に入らずコンディションの良い物は年々入手が困難になっている。そんな理由で今後の課題としてメッサーシュミットのユーザーはエンジンをオーバーホールする場合整備ミスでパーツにダメージを与えない様細心の注意をはらい必ず特工を使用して各パーツの脱着を行い正しく調整して組付け適合性の良いギアオイルを選ぶ必要が有る。そうすれば取り扱いの上手なユーザーなら5万km程度は乗れるはず。メッサ―に限った事では無いが年式の古い小排気量の2サイクルエンジンは上手に扱えるか否によりエンジンのライフは大きく影響する。ユーザーのテクニックが向上すればエンジン各部の負荷が減少しライフも伸びるのでランニングコストは安くなる。
キムリック・エーワン

私は若い頃から将来は自分の自動車を造りたいと言う漠然とした夢を持っていました。1984~5年頃偶然メッサーシュミットを見かけその瞬間にビビッと来るものが有りその愛らしいデザインを基にして「自分の夢の車」を実現したいとの想いが募り1986年にボディデザインの研究用としてメッサーシュミットを購入しました。
 
製造工程などはギャラリーからご確認頂けます。
また、雑誌などにも掲載されております。詳しくは、メディア掲載をご確認ください。

 2008年BSレース関係者のOB会

ペンション シルバーストンにて2008年BSレース関係者のOB会。全員そろってパチリ。
前列.右から 的野さん GP部門(技術者・ライダー)
玉田さん(監督)鈴木さん(チーフメカ)尾形さん(ライダー)
植野さん(エンジン設計)有川さん(ライダー)
中列.右から 滋野さん(ライダー)赤松さん(ライダー)谷さん(メカ)
後列.右から 吉村さん(ゲスト)青木(ライダー)宮口さん(ライダー)
鍵さん(ライダー)坂口さん(ライダー)田中さん(ライダー)大光明さん(メカ)
トーハツLAX125

 私のトーハツLAX125

玉田さんは1962年2月3日デイトナスピードウェイで開催されたUSグランプリにトーハツメーカーチームのエースライダーとして参戦している。鈴木さんはBSが生産を中止した後イタリアへ渡りピアジオ社でデザイナーとして務めた後カワサキの監督になり世界選手権250㏄及び350㏄クラスで2年連続のシリーズチャンピオンを獲得している。有川さんは1960年代ランペットで活躍しトーハツ50ツインのライダーを務めた後BSへ移籍。
ランペットCR2

【写真左上】左から玉田さん、鈴木さん、有川さん。私のトーハツLAXとパチリ。
【写真左下】左から 玉田さん、有川さん、後方は私のランペットCR2。

ブリジストンレース史雑感

1965年8月伊豆丸野山で開催されたMCFAJ第13回モトクロス全日本選手権に於てBSレーシングチームの清水さんがジュニア90㏄クラスで念願の優勝を果した。これがブリジストンにとって記念すべき全日本での初勝利となった。当時はスズキのメーカー系チームである城北ライダース(関東)とマウンテンライダース(関西)によって鉄壁が築かれており新興のBSレーシングチームにとってその牙城を崩す事は容易では無かった。そんな状況下1966年4月3日四国初の全日本選手権(MFJ第3回モトクロス日本GP)が香川県坂出市の五色台で開催されこのレースで幸運にも私がノービス50㏄クラスで優勝しこれがブリジストンにとって全日本選手権に於ける50㏄クラス初優勝となった。この事で私の契約内容に無かった「特別報奨金」が支給された。
50㏄クラス初優勝がBS50の発売から間もない時期でありブリジストンにとって販売戦略上特別な意味が有った様だ。BSは1964年にまず90㏄のEAIを発売し翌年の1965年に50㏄のGBIを発売した。私は1964年の中頃BSとライダー契約を交したがその時点でBSには90㏄しか無かったのでBS50が発売されるまでの間は私が所有していたトーハツランペットで出場する事を許されていた。トーハツは既に倒産していたが…それにしても他メーカーのバイクで出場する事を認めてくれたブリジストンサイクル工業(現ブリジストンタイヤ)は度量の広いメーカーだと思う。私がブリジストン50で初優勝した1966年4月のモトクロス日本グランプリ以後もBSチームのメカニック達は努力を重ねその結果エンジン出力や特性が更に向上しチームは急速に力を付け各地のレースで次々と優勝しその努力が報われた。しかし皮肉な事にチームが本当の意味でピークを迎えたのはブリジストンが国内販売の中止を決定した1967年だった。
この年度でチームの活動は最後になったが各地のレースに於いて破竹の快進撃で連戦連勝した。私は1966年の末に契約が切れBSから離れていたがチームに残ったライダーとメカニック達は先が無い事が解っている状況にもかかわらずモチベーションを失わず最後まで戦い抜き数々の素晴らしい記録を打ち立てた。もしブリジストンがオートバイメーカーとして存続していたら…と思うと残念の一言では済まされない複雑な感情が込み上げてくるがそれでも若かりし頃BSレーシングチームに所属し良チームメイトに恵まれ貴重な体験が出来た事は私にとって現在でも最良の思い出になっている。
  • ’66モトクロス日本G.P 公式プログラム

2018年3月23日

今年は私にとって記念すべき良き年となりました。
3月23日に鈴木さん御夫妻が私を訪ねてくれました。
およそ12~13年前にも奥さんのお母様と共に3人ではるばる高知まで来てくれました。今回も前回同様沢山のおみやげを頂きました。中でも特別なものは手作りのチェアーで木工は鈴木さんが担当しそれに奥さんがトールペイントを施した御夫妻の合作です。お2人共器用でとても美しい仕上りです。そのチェアーは私の女房のお気に入りでずっと愛用させて頂いております。
今回は高知県出身で私と同じBSの契約ライダーだった片岡とバイクショップを経営している山崎君と私の3人と鈴木さん御夫妻の合計5名でした。山崎君と私はおよそ14~15年前に出会い鈴木さんが一回目に高知へ来て下さった時に私が彼を鈴木さんに紹介したら何と山崎君は鈴木さんと親しい赤石さんと交流が有りその偶然に大変驚きました。そんな縁が有って今回も彼に来てもらいました。
鈴木さんは二輪のレース界でカワサキのワールドグランプリの監督として世界的な活躍をしその世界では知らぬ者が居ない名実共にレジェンドで有り各界の名士はもとより天皇・皇后両陛下とも交流が有りながら私の様な者にも気を配ってくれる温かさが鈴木さんの魅力です。そんな素晴らしい先輩をタケちゃんと呼べる自分はこの上無い幸せ者です。私が若かりし20代にBSレーシングチームでタケちゃんと巡り会えた事は幸運の一語に尽きます。そんなタケちゃんの事を尊敬し誇りに思っています。
鈴木さん・奥さんの紀子さん共とても気さくな人柄でヨーロッパでの生活が長く話題も豊富ですからバイクに興味の無い人でもペンション・シルバーストンへ行ってみてはいかがでしょう。きっと満足すると思います。

幻のBS90ダブルロータリーバルブエンジン

私がブリジストンとライダー契約を交しレース参戦の為1966年の5月頃、埼玉県の上尾工場へ行きそこをベースにして神奈川、富士、秋田などのレースに参加したが契約ライダーはレースの時以外は時間的な制約は無いので会社(レーサーサービス課)へ行く必要は無いが私はメカに強い関心が有ったので宿泊施設からほぼ毎日出かけエンジンのチューニングや車体の整備などをしていた。そんな折レーサー課の一角にふと目を向けたところ私の好奇心をくすぐる一台のエンジンが目に飛び込んできた。それは前期型の50㏄GPエンジンなどと一緒に金属製の台の上に置かれていた。そのエンジンを良く見るとベースはBS90でキャブレターが左右に配置され国産電機製の角形マグネットがシリンダーの後へ取付けられていた。
このレイアウトのエンジンは私の知る限りクライドラーが50㏄のGPレーサーで最初にトライし実戦でも使っている。その他定かでは無いがスズキも試作したと伝えられている。そのエンジンをBSがなぜ実戦で使わないのか不思議に思い当時メカニックに尋ねたが明確な返事は無かった。それから45年経過したBSレーシングチームのOB会の折当時のチーフメカニックだった鈴木さんにそのエンジンの事を尋ねたらGP部門で製造されたエンジンだが国内レースが主体のレーサーサービス課の方ではシングルロータリーバルブエンジンで充分な性能が出ており必要を感じなかったとの事でテストベンチにもかけなかったと聞いて驚いた。このエンジンがGP部門で製造された意図は良く解らないが私の想像では50㏄単気筒のGPレーサーのエンジンを試作する前段階でダブルロータリーバルブの可能性を探っておきたかったと言うのがその理由ではないだろうか。ではなぜ50㏄エンジンで試さなかったのかと言う疑問については私が上尾工場でそのエンジンを見た時期が前記した様に1966年5月頃なのでそのエンジンを造るには計画案を出し設計・製造・ベンチテストなどに必要な時間を考えると最低でも6~8か月位はかかるのではないだろうか。
そうならその時期にはまだ50㏄の市販車が完成していなかったのでその時点で既に市販されていた90㏄のエンジンをベースにして試作したのではないだろうか。
このエンジンの基本的な仕様について説明します。
ベースになった市販型の90㏄エンジンはロータリーバルブが右側へ配置されておりもう一つのバルブを左側へ付加配置するとマグネットの行き場が無くなるのでエンジン右側のクラッチドリブンギアの上部へ新たに一軸付加しそれにクランクシャフトのピニオンギアの倍数のギアを組み付けマグネットを回転させるやり方でスズキのTR50(M40)と同じ方式。この方式だとクランクシャフト一回転に対しマグネットのシャフトは1/2回転しかしないので単気筒にもかかわらず180度間隔で2個のポイントが必要となる。このレイアウトを試したクライドラー・スズキ・BS共私の知る限りそれに関わった技術者達がこの形式のエンジン特性について何も語っていません。
そういう事で私が1966年に上尾工場で見て以来この型式のエンジンがなぜ実戦配備されなかったのか自ら試して結果を出さない限りモヤモヤした気持は私が生きている限り解消しないので意を決して実行に移す事にした。図面に約1ヶ月を費やし2015年7月からエンジンの改造に着手した。完成までの約5か月間は期待と不安が交差しワクワク・ドキドキの連続でまるで初恋の様にとても刺激的だった。2016年1月1日にやっとエンジンが完成し初始動させた時の感動は現在でも
鮮明に憶えている。このエンジンの構造の詳細及び実走した結果についてはいずれ述べようと思っています。

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